ブックレビュー:池内了著「科学者と戦争」を読んで

今月の担当は橋本です。今回はブックレビューの2回目として、「科学者と戦争」(岩波新書1611 2016年6月21日初版)について、取り上げようと思います。
8月は故郷に思いを馳せたお盆の季節であるとともに、既に73年目を迎えた大戦終了の日を機に、平和を考える時とも言えます。今回は、この時期に、現在の日本において、防衛省・自衛隊と大学・研究機関との間の共同研究(=軍学共同)が急進展しつつある実情について、科学者として警鐘を鳴らしている重いテーマの本書を、あえて紹介させていただきます。

私が本書に関心を持ったのは、著者の名前は私の好きな天文学の研究者として存じあげておりましたが、本書が出版された直後に、著者の「天文学者が語る憲法」という講演を聞く機会があり、科学者として平和活動に取り組んでいることを知ったのがきっかけでした。

著者の池内了氏は、もともと理学博士(物理学)、天文学者、宇宙物理学者で、国立天文台教授、名古屋大学大学院教授、早稲田大学特任教授などを歴任、現在は総合研究大学院名誉教授。「世界平和アピール七人委員会」の委員でもあり、「九条科学者の会」の呼びかけ人も務めております。(1944年生まれ、京都大学理学部物理学科卒業、同大学大学院理学研究科、物理学専攻博士課程修了。)

日本は、第2次世界大戦後ごく最近まで、公然たる軍学共同は行われてこなかったですが、これは「日本の科学者が日本国憲法の精神を受け継ぎ、平和のための科学に徹し、軍事研究を拒否してきたからであり、世界的に極めて異例」であったと記しています。しかし、2015年に創設された、大学、研究機関、企業の研究者向けの資金供与の制度である「安全保障技術研究推進制度」などの実施によって、日本の科学研究の軍学共同路線が本格的に推進されつつある、と本書では述べております。

池内氏は、本年6月にも、「世界平和アピール七人委員会」として、世界とアジアの緊張緩和に背を向けている現政権の退陣を求める声明を出していますが、その背景の一つの論拠を示しているのが本書でもあり、そういう意味でも貴重な問題提起をしていると言えます。

■本書の概要(各章の紹介と本文より一部抜粋)
はじめに―軍学共同が急進展する日本
ここでは、本書を執筆した目的と各章ごとの概要について記している。「政治の保守化・軍事化と軌を一にして軍学共同が急進展する日本の現状をレポートしたもの」で、「さらに多くの方々に向けて、進みつつある軍学共同の実態を知らせるとともに、このような動きに警鐘を鳴らすことを目的として執筆した」と記している。

第1章 科学者はなぜ軍事研究に従うのか
科学者が軍事研究に従ってきた歴史をたどり、日本の戦前・戦時中の科学者が戦争協力に動員されていった経緯を振り返るとともに、ナチス・ドイツ時代の3名の著名な物理学者の、科学と政治に対する三者三様の生き方を紹介している。
「1938年、政府が国内のすべての人的・物的資源を統制運用できることを定めた国家総動員法が施行され、1940年には科学動員実施計画綱領が閣議決定された。(中略)文部省が新設した科学研究費交付金は、基礎研究のためということになっていたが、やがて戦争への動員のために使われるようになっていった。」(p22)

第2章 科学者の戦争放棄のその後
戦後における日本の科学者の平和路線とその揺らぎを見て、現在進行しつつある空(宇宙)と海(海洋)の軍事化路線を検証し、軍学共同への防衛省の戦略を読み解いている。
「科学技術基本計画は、1年間にGDPの1%、1期5年間で20数兆円もの科学技術振興経費を扱い、日本の科学技術政策に大きな影響を与える。2016年1月に閣議決定された第5期の同計画には、「国家安全保障上の諸課題への対応」が書き込まれた。今後科学の軍事化がいっそう加速されると予想される。」(p106)

第3章 デュアルユース問題を考える
軍学共同の口実あるいは積極的理由として使われているデュアルユース(両義性)について論じ、さらに、研究者を対象としたアンケート結果から、軍学共同に関する彼らの意識について考察している。
「積極的に軍事研究を行なおうと考える研究者を除いて、一般の研究者は民生のための基礎研究を行っているという意識が強い。しかし、手を加えれば軍事利用できる研究は数多くあり、そこに境界線を入れることは事実上不可能である。そのため、「軍事利用の危険性がある」というだけで研究を禁止できないのは確かである。(中略)問題となるのは軍から研究資金を供与される場合で、私はそのような研究は、いかに基礎研究に見えようと、将来必ず軍学共同につながるので行うべきではないと考えている。軍が興味を持つということは、すでに軍事利用に一歩踏み出しているのだから、デュアルユースではないことは明らかである。」(p115~117)

第4章 軍事化した科学の末路
世界各国で軍学共同研究が行われ、世界中で50万人を超す研究者が何らかの形で直接軍事研究に携わっているという見積りがあるが、原爆開発のマンハッタン計画を主導したオッペンハイマーをはじめとした、軍事研究にはまり込んだ科学者を待つ悲惨な結末について述べている。
「言葉の厳密な意味で、軍事研究が科学を発展させることはないことを言っておきたい。科学とは、さまざまな自然現象を支配している原理や法則を明らかにするための営みである。その原理や法則は、研究対象とする物体や減少に適用できるだけでなく、より幅広い対象にも適用できる普遍性がなければいけない。(中略)軍事研究で行われるのは、戦争に使われる軍事技術の開発である。科学で得られた知見を具体的技術に適用し、戦争を遂行するために役立つもろもろの装備や兵器などを製作したり改良したりする。つまり、軍事研究が発展させるのは、(科学ではなく)技術であることをまず強調しておきたい。」(p175)

おわりに―「人格なき科学」に陥らないために
現在の日本の状況を、一気に軍国主義化していったナチス・ドイツと同じ道をたどるのではないかと警鐘を鳴らし、日本がもしアメリカと同調して軍事力を全面的に展開するような国家となったら、日本の科学者の間にも、ナチス・ドイツ時代と共通する心情がいっそう広がるのではないかとの見方を示し、強く批判している。
「第五期科学技術基本計画に『国家安全保障上の諸課題への対応』という項目が書き入れられたように、国全体として安全保障に名を借りた軍事優先の方向に走り出しているのは確実だろう。これが日本の科学技術の要となり、そのために科学者・技術者を総動員する体制が今後敷かれていくのではないだろうか。産学共同で商業主義に、そして軍学共同で軍事化路線に占領され、「人格なき科学」に陥っていくのではないかと強く危惧している。」(p186)

■読後感想と視点
【全体所感】
私の読後の所感を一言で記すと、筆者の「科学と軍事は、もう取り返すことのできないところまで密接して来てしまっているという強い危機感と、それでも一人の人間として、科学者の良心や志を信じていたい、そして少しでも日本の軍事化を止めるための力になりたいという、切なる想い。」という感じでしょうか。
そして、私はページを進めるにつれて、正直なところ絶望感が深くなるばかりでした。著者は、あとがきの冒頭で、「本書は、いま日本において、急進展しつつある軍(防衛省・自衛隊)と学(大学・研究機関)との間の共同研究(=軍学共同)の実態を描き、今後予想される展開に対して警告を発するために書いたものである。」(p197)と、再度本書の目的を記載しております。
これは、見方を変えれば、科学者としての視点から「軍学共同」というテーマに絞って、その関連する問題点について記述していますので、その警告には限度があるということでもあると考えられます。具体的には、例えば既に経済の根幹にしっかり組み込まれている国防産業(軍需産業)そのものについて直接的に取り上げているわけではありませんので、「今そこにある危機」は、本書でカバーしているレベルを大きく超えている規模となっていることは容易に想像されます。また、ITの加速度的な高性能化により、国家間も民間事業も軍事的にも、単独には判断も行動もできない運命共同体的な構造が築きあげられているということにも、ほとんど触れておりません。従いまして、既に政治や経済のレベルで何とかなるという範囲を既に遥かに超えていることを認めざるを得ないのではないか、という意味で絶望感が深くなると記した次第です。
人類は、既に瞬時にして大量の血を流し、その存続を危うくする規模での破壊力を持つ技術を創りあげてしまいました。その現実を直視しながらも、これから先の持続的発展を担保するために、強い意志と想像力を働かせて何とか歯止めをかけていくこと、すなわち実力行使を想像する先には人間がいることを模索していかなければならないと痛感しております。「血を流す創造力から、血の通った想像力へ」という言葉が思い浮かびました。さらに加えて、科学の影響の大きな分野として、情報化、地球環境、生態系破壊、遺伝子操作、資源・エネルギー(とりわけ原子力発電)などの、本書の範疇を超えた人類生存規模での諸問題はまだまだあり、科学との平和的共存が本当に必要不可欠であることを改めて気づかされました。
筆者は、「おわりに」のタイトルを、「『人格なき科学』に陥らないために」と掲げ、本文を締めくくっております。そこでは、「科学による破滅を避けるために」「社会に責任を持つ科学者」など、繰り返し科学者に倫理的行動をとるように訴えており、また自身も抗議行動などの働きかけを実際に行っております。私は、既に決して若くない筆者の使命感あふれる行動に最大限の敬意を表しながらも、その成果がどれほどの結実を見ることができるのかの可能性を考えると、やはり深い絶望を感じざるを得ないのが実感です。

【視点1】やはりカギを握るのは政治の品質+官僚の力なのか?
本書で記載しているように、産業革命以降は、欧米諸国を中心に、国力を高めるために科学・技術が軍事と結びつき、経済規模の拡大と共に更なる国力の源となったことから、軍拡競争がエスカレートし、二度に渡る世界規模の戦争を招くという人類にとっての大きな悲劇につながってしまいました。そんな中で日本は壊滅的な国家状況から、驚異ともいえる経済成長を遂げながらも、敗戦から学び、国家が日本国憲法の平和主義の精神も上手く使いながら、軍事面では一定の歯止めをかけてきました。
しかし現在は、国家主導(アメリカ主導)で国防産業への後押しもあり、実質的な軍事力の増強が図られており、本書でも再三指摘しているように、大学や研究機関への巧妙な働きかけが、「科学者の良心」という踏み絵をも許されないような状況を、既成事実化しようとしています。この点については、日米同盟のあり方や昨今の東アジア情勢などの国際環境の変化への対抗上から、また経済力をキープしていくためには原発の再稼働や輸出、国防産業への更なるシフトも推進する、といった「現実的には止むを得ない」といった考え方は確かにあると思います。
しかし、私はそのような考えは良しとしません。なぜなら、そのような「現実主義」を掲げた場合は、「だから仕方がない」という思考停止に陥ってしまい、仮にこのままの状態が続いた場合は、地球規模での破滅がむしろ現実になってしまうことが危惧されるためです。
と、こうして世界的視野から近代の歴史を俯瞰してみた場合、結局科学は、どれほど先鋭的になって、また潜在的な破壊力を強くすることができたとしても、国家を動かす政治(および特に日本の場合は、その政治の意向に忖度してしまう官僚)の強大な存在の前では、その持つ力には限界があるということにならざるを得ないのでしょうか?

【視点2】科学における両義性の持つ本音と建前は、止むを得ないのだろうか?
筆者が本書において、とりわけ力点を置いているテーマは、両義性(デュアルユース)といえ、このテーマだけで1つの章(第3章)を設けており、さらに、あとがきにおいて、以下のようにまとめています。
「いかなる科学・技術の成果も平和目的(民生利用)のためにも戦争目的(軍事利用)のためにも両義的(デュアル)に使われ、研究段階においてはその区別はつかない。従って、軍事に適用できるからといって基礎研究段階で禁止することはできない。できた段階で利用法を考えるのは軍であり、自分には関係しない。また、将来、民生利用されて人々の役に立つかもしれないのだから、開発そのものは止めるべきではない」(p199)
そして、一般の研究者は民生のための基礎研究を行っているという意識が強いが、手を加えれば軍事利用できる研究は数多くあり、そこに境界線を入れることは事実上不可能と断言しております。また、巨額の研究予算を捻出するためには、軍事目的そのもの、ないしは軍事目的に転用することを可とする場合に有利であることや、軍事技術の開発は「安全・安心のための」民生技術の開発であり、それはデュアルではなく「モノユース」であるという考えも出てきていることを紹介しております。そして、デュアルユースを口実にした軍事研究への進出は、「軍事研究を行わない」という宣言をする以外には、防ぎようがないとの考えです。
さらには、「科学者は自分が発見した事柄が先々どのように使われるかを想像し、その結果を直視しなければならず、何らかの悲劇が起こると推測できたときは行動を起こさなければならない。それが面倒というのなら、人間としての資格はないといわざるを得ない。」とまで言い切っております。(p152より抜粋)
このような筆者の主張するところは痛いほど分かるのですが、コンピューター、インターネット、カーナビ、電子レンジなどが、もともと軍事技術として開発されたにもかかわらず、これだけ民生に転用されて大成功した製品が多く、それらの結果、多大な利便性を享受しているという現実があります。更には、いわゆる軍需産業ではなくとも、「自動車、船舶、航空機、エレクトロニクス、IT、人工知能、ナノテクノロジー、繊維など、多くの分野の企業で、多くの研究者が軍事用品への応用研究や開発を行っている」(p154)ことにも触れております。
これらの現実の意味することは、我々が経済活動の恩恵を受け、日々の生活を過ごしている実状で、軍事研究に関連する事項を排除していくことは、やはり不可能と言わざるを得ない、ということでしょうか?

■視点3:「核」の平和利用と軍事利用について―ヒロシマ・フクシマから何を学んだのか?
私は、本書のタイトルを拝見した時に、直ぐに原子爆弾の開発にかかわった科学者たちのことを連想いたしました。本書では触れられておりませんが、原爆開発計画を目的として第二次世界大戦中にアメリカが極秘にスタートさせた「マンハッタン計画」では、延べ約5万人にものぼる科学者・技術者を使い、総計約20億ドルの資金が投入され、現在のアメリカの「軍産官学複合体」を生み出す大きなきっかけとなったともいわれております。このプロジェクトに参加した科学者たちの倫理観については私は把握できておりませんが、科学者の立場でプロジェクトを主導したオッペンハイマーは、日本への原爆投下に反対した科学者を巧みに排除していったといわれております。しかし、戦後は核開発、特に水爆開発に反対するようになり、国家エリートの地位から追放され、結局は国家に翻弄された科学者の象徴のような例となってしまいました。
そして、現在進行形の問題として、福島第一原発の事故後、原子力発電政策を継続するか否かについては、反対する科学者(加えて憲法学者などの専門家も)の声が、結局は決定への影響力を発揮することができないのが実状です。その背景としては、日本は日米同盟を基に、核武装は差し控えるが核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持する方針をとり、それを日本の安全保障政策の主要な一環とする(原発潜在的核抑止論)という考えが根強く、その方針を政府が強力に保持しているためと考えられます。
日本は原子爆弾を投下され、原子力発電で大きな事故を起こした唯一の国という事実があります。核の平和利用と軍事利用の「デュアルユース」については、本書が直接的に記載しているテーマではありませんが、科学者のみならず、国民全員の問題として、真剣に考えてみる必要性を痛感しております。

【今月の1枚】
8月初旬に、家族で瀬戸内のアートな島めぐりをした時の1枚です。
直島→豊島→犬島と周り、こちらは、犬島の「精錬所美術館」です。
抜けるような真夏の青空の下、廃工場を舞台に斬新な問いかけがあり、
強くこころに残る体験をしました。(8月撮影)