“大人”はどこに行ってしまったのか?
今回は橋本が担当の2回目となりますが、少々硬い話になりますことをご容赦ください。
最近とても気になっていることがあります。それは、日本を代表する企業での粉飾や不正、食品や耐震・燃費などの偽装、選挙での争点隠しや公約を守らなくても「新しい判断」などと言っている政治、更にはそうした政治状況に忖度をして、まともに機能していないと思われえるマスコミ…などです。そして、そこから共通して浮かび上がってくるのは、社会的には「責任ある立場にありながら責任を取らない」ことが多く、そして「いつのまにかうやむやになって忘れ去られて、何事もなかったかのように過ぎていく」時代となってしまったのではないかということです。
併せて、「自分も知らず知らずのうちに行っているかもしれないね」「自分が子供のころに漠然と、尊敬とあこがれを持っていた“大人”ではないよね」という、自責を含めた感覚も覚え、こんな有様では、今後に続く若い世代にとても誇りをもって接することはできない、という懺悔のような気持ちにもなります。そう、とても気になるのは、私たちが漠然と思い描いていた、人が成長した証ともいうべき“大人”はどこに行ってしまったのでしょうか?という不安です。もちろん結構怒りも覚えています。(尤も、そうした大人未満の人たちが、様々な分野で主要なポストを占めて仕切っていても、何とか成り立っている日本は素晴らしいシステム?ということが、逆説的に言えるのかもしれませんが。)
“大人になる”ということ
ところで、そもそも(身体的なことではなく人間力としての)大人の定義とは何でしょうか?自立している、冷静かつ論理的に考えることが出来る、しっかりと自分の意見を述べることが出来る、物事についてわきまえている、責任が取れる…いろいろと思い浮かぶと思います。
そこで、私がシンプルに心がけていたい3つのことを紹介させていただきます。
① 誠実であろうとすること
② 多様性を受容できること
③ 想像力を働かせることができること
少々捕捉しますと、①は、どんなことに対して誠実なのかは問いません。それこそ、他者へ迷惑を与えなければ、怒ることやあまり無理をしないことであってもかまわないと思っています。変に小細工をせず、その時の心の声に素直でいたいということです。(ちなみに、プロビティコンサルティングのプロビティとは、誠実・高潔といった意味なのです。)
②は、これはいわゆるダイバーシティと言われていることにもつながりますが、そもそも人のパーソナリティや価値観はそれぞれ違っていて当たり前ですので、あることに固執して不寛容になったりせず、多様性こそが新たな価値を生むという姿勢でありたいということです。
そして③は、自分の発言や行動がどのような影響を与えるかを、常に忘れないようにしたいからです。自分本位や無自覚なことによって反社会的になったり、人を傷つけることがあってはいけないということです。「こんなことを言ったら、あるいは行ったら、相手はどのように受けとめるのだろうか」と少しでも想像することは、結構言動に与える影響があると思います。
そして、これらのことを「そのようにありたい」と自覚していれば、可能な範囲でコントロールする(自律につながる)と思っています。
これらをバランス良く備えている人を私は“大人”と呼びたいため、自分を成長させる指針として心がけているのですが、いかがでしょうか?
と、このようなことを書きながらも、当然なかなか上手くいかず、不惑の年齢を遥かに超えながらも、反省ばかりの日々ですが…。
それでも、人の成長に寄与する仕事をしていきたい
最後に、唐突ではありますが、少し自己紹介も兼ねて記したいと思います。
私はもともと、今でいうブラック企業に勤務した経験の中で「人を大切にしない企業はいずれ行き詰る」ということを痛感し、「人の成長に寄与する仕事をしたい」という思いから、30代前半より企業人向け教育事業に携わって、ちょうど今年四半世紀になりました。
今まで行ってきたこと、そしてこれからの残された時間でどのようなことができるかは、いずれも微々たることかもしれませんが、もう少し“大人”になって世に貢献したいと考えておりますので、引き続き宜しくお願いいたします。
【おまけ】今月の1枚