ブックレビュー:広井良典著「ポスト資本主義-科学・人間・社会の未来-」を読んで

今回は橋本が担当しますが、初めてブックレビューを試みてみます。
私は、出身大学のゼミの卒業生有志による勉強会のメンバーで、年に数回の会合を持ち、歴史や政治を主なテーマとして、ブックレビューや独自の研究成果などの発表とディスカッションをしております。本書は私が勉強会で取り上げましたが、資本主義の歩みと現状および未来への考察が主たるテーマということもありますので、今回再度見直して、紹介させていただくことにしました。取り上げる書籍は、広井良典著「ポスト資本主義-科学・人間・社会の未来-」(岩波新書1550、 2015年6月19日初版)です。

著者の広井良典氏は、1961年岡山県生まれ、東京大学教養学部卒業、同大学院総合文化研究科修士課程修了、専攻は公共政策、科学哲学。厚生省勤務を経て、東京大学先端科学技術研究センター客員教授、千葉大学法経学部教授を経て、現在千葉大学法政経学部客員教授、京都大学こころの未来研究センター教授。社会保障、環境、地域、医療等に関する政策研究を軸に、コミュニティ、ケア、死生観等についての哲学的考察に至るまで、幅広い分野での活動を行っており、環境・福祉・経済を統合した「定常型社会=持続可能な福祉社会」を提唱しております。

本書の内容は、資本主義の進化と限界、未来への可能性を軸にしたテーマではありますが、科学・情報・生命・福祉社会・福祉国家に至るまで、論考を広げておりますので、なかなか全体像が捉えにくいのですが、カバー裏の文章で要点がまとめられていますので、以下引用してみます。
「富の偏在、環境・資源の限界など、なおいっそう深刻化する課題に、『成長』は解答たりうるか。近代科学とも通底する人間観・生命観にまで遡りつつ、人類史的なスケールで資本主義の歩みと現在を吟味。定常化時代に求められる新たな価値とともに、資本主義・社会主義・エコロジーが交差する先にあらわれる社会像を、鮮明に描く。」

■本書の章構成と記述からの抜粋
はじめに―「ポスト・ヒューマン」と電脳資本主義
⇒近代科学と資本主義は、限りない「拡大・成長」の追求という点において共通しており、その限りで両輪の関係にあるが、そうした方向の追求が必ずしも人間の幸せや精神的充足をもたらさないことを、人々がより強く感じ始めているのが、現在の状況ではないか。(ⅳ)
⇒日本は、そのような成熟社会の新たな豊かな形こそを先導していくポジションにあるのではないか。(ⅴ)

序章 人類史における拡大・成長と定常化-ポスト資本主義をめぐる座標軸
⇒人類の歴史を大きく俯瞰すると、人口や経済規模の「拡大・成長」と「定常化」の時代が交代する3回のサイクルでとらえることができ、第3のサイクルの全体が、(近代)資本主義/ポスト資本主義の展開と重なる=本書の基本的な問題意識(P1、6 )
⇒それでは、第4の拡大・成長はあるか?候補としては人工光合成、宇宙開発ないしは地球脱出、ポスト・ヒューマンの3つ、しかしこれらの方向性については懐疑的。それは現在の世界に生じている様々な矛盾を放置した性格のものであるため、個人の生活保障と、環境保全が経済とも両立しながら実現されていくような社会像であるという認識と重なる。(P11、13)

第Ⅰ部 資本主義の進化
第1章 資本主義の意味
⇒歴史家ブローデルの主張:「資本主義」と「市場経済」を明確に区別した。(P24)
資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステム。(P28)
⇒「第3の拡大・成長」と重なる(近代)資本主義と呼ぶものの実質。その2つの次元の関係。(P36)
「個人-社会」の関係…個人が共同体の拘束を離れて自由に経済活動を行うことができ、かつそうした個人の活動が社会全体の利益になるという論理:【個人の独立】
「人間-自然」の関係…人間は(産業)技術を通じて自然をいくらでも開発することができ、かつそこから大きな利益を引き出すことができるという論理:【自然支配】
第2章 科学と資本主義
⇒資本主義と近代科学は、いずれも「共同体から独立した個人」および「自然支配(自然と人間の切断)という、共通の世界観や志向から派生した営み。(P40)
⇒近代科学をめぐる三つのステップ(P43)
(1)17世紀「科学革命」:物質(と力)
(2)19世紀「科学の制度化」:物質/エネルギー
(3)20世紀半ば~「経済成長のための科学」という枠組みの成立:エネルギー/情報
21世紀初頭~ポスト資本主義または超(スーパー)資本主義(~ポスト・ヒューマン)
第3章 電脳資本主義と超(スーパー)資本主義VSポスト資本主義
⇒今という時代は「情報文明の成熟化ないし飽和」あるいは「ポスト情報化」ともいうべき局面への移行期と考えるべき、今後の時代の方向として、“IT革命とグローバル化”といったことを過度に強調するのはミスリーディングというべきだろう。(P66)
⇒ひとつのありうるビジョンとして、市場経済を無限に“離陸”させていく方向ではなく、根底にある「コミュニティ」や「自然」という土台にもう一度つなぎ“着陸”させていくべき。(P77)

第Ⅱ部 科学・情報・生命
第4章 社会的関係性
⇒近年の諸科学において、人間の利他性や協調行動等が協調されるようになっているのは、そのような方向性に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済社会がなりつつあることの反映とも言え、それはポスト資本主義、あるいは「拡大・成長から定常への移行」という時代状況とも呼応しており、時代状況に適応した科学や知、価値原理が求められている。(P99)
第5章 自然の内発性
⇒世界の理解に関する4つの立場-非生命-生命-人間」の境界をめぐって(P104)A=すべて機械論的、B=人間以外/人間で境界、C=非生命/生命で境界、D=すべて連続的
⇒ニュートン以降の近代科学の歩みは、近代科学成立時の機械論的自然観がいったん捨て去ったアニミズム的要素―“生ける自然”あるいは自然の内発性―を、世界の内部に新たな形で取り戻していった流れと把握することもできる。(P122)

第Ⅲ部 緑の福祉国家/持続可能な福祉社会
第6章 資本主義の現在
⇒“過剰”という富の精算の「総量」の問題と、“貧困”や“格差”という、富の「分配」の問題の双方が、互いに絡み合う形で存在しているが、求められる対応の重要な柱は2つ。(P135)
(1) 過剰の抑制―富の総量に対して
(2) 再分配の強化・再編―富の分配に関して
⇒資源の有限性が顕在化し、かつ生産過剰が貴重となって失業が慢性化する成熟・定常期においては、人々の関心はサービスや人との関係性(あるいは「ケア」に次第にシフトし、人が中心の「労働集約的」な領域が経済の前面に出るようになるだろう。そうした構造変化に応じて生産性の概念を再考し、転換していく必要がある。(P147)
第7章 資本主義の社会化またはソーシャルな資本主義
⇒資本主義の「修正」の中身は、政府ないし公的部門による市場への介入の拡大であるから、それは換言すれば、資本主義はそのシステムを順次“社会化”してきた―あるいはシステムの中に“社会主義的な要素”を導入してきた―ステップでもあった。(P156)
⇒資本主義の進化の今後の展望(P157)
(1)「人生前半の社会保障」等を通じた、人生における“共通のスタートライン”ないし「機会の平等」保証の強化
(2)「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融失算等)
(3)コミュニティというセーフティネットの再活性化
第8章 コミュニティ経済
⇒社会構造において本質的な意味を持つ「コミュニティ」と「ローカル」という2つのテーマ、ないしは視点としての、「公―共―私」と「ローカル―ナショナル―グローバル」の関係性。(P 177~179)
「共」的原理(互酬性)~コミュニティ→ローカル
「公」的原理(再分配)~政府→ナショナル
「私」的原理(市場)~→グローバル
⇒「緑の福祉国家指標(または持続可能な福祉社会指標、環境福祉指標)」による試み。(P210)
通常は一緒に論じられることの少ない「福祉」と「環境」を総合的にとらえる時、興味深いことに、両者の間には一定の相関がある。(P211)
「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」は、“人口減少社会のフロントランナー”としての日本社会が、真の豊かさのかたちとして実現していくべき社会像としても位置付けられるのである。(P215)
終章  地球倫理の可能性
⇒自然科学に象徴される近代科学的なアプローチと、いわば「民俗学的・歴史学的アプローチ」とも呼びうるような、歴史性や風土、宗教や自然信仰、文化やコミュニティ等に着目したアプローチの両者を大きな視野で統合していくような、新たな「科学」ないしは知のあり方ではないだろうか。(P227)
⇒地球倫理の視点からは、「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」は、むしろあらゆる宗教や進行の根源にあるものであり―アインシュタインが「宇宙的宗教感情」と呼んだものと通底するかもしれない―、普遍宗教を含む様々な宗教における異なる「神(神々)」や進行の姿は、そうした根底にあるものを異なる形で表現したものと考えるからである。(P241)

あとがき
⇒本書は「ポスト資本主義」をテーマとするものだが、一方でそれは、私自身のこれまでの探求のテーマの柱の一つだった「定常型社会」論―そこでの「分配」のあり方を含む―と深く関わり、他方で科学論(ないし生命論)的な関心を全面に出した内容となっている。(P259)

■読後感想と視点(ご意見をいただきたいところ)
本書で提言していることは、成長を前提とした資本主義は明らかに行き詰まりを見せており、今後は「定常社会」に象徴される“ポスト資本主義”と呼ぶべき仕組みに大きくベクトルを変え、変革していく必要があるというもので、その目指すところは抵抗感が少なく、受け入れ易い(換言すると、強い特徴を持った主張ではない)との感触を持ちました。
資本主義をメインテーマとして、その発生から現在に至るまでの功罪を振り返りながらも、科学、社会学、経済、宗教、そして人間学などといった多岐にわたる分野からのアプローチをしており、これからの社会のあり方までを提唱していることが印象的で、幅広い分野と長大な時間軸に思いを馳せ、洞察していくことの意味について深く考えさせられました。
私見では、本書を貫く(あるいは通底する)、「もう本気で総力を挙げて取り組んでいかないと、決定的に取り返しのつかないことになるかもしれない」という、研究者の立場を超えた滲み出る苦悩と、何とかしなければいけないという使命感を強く感じ、とても心動かされました、というのが率直な感想です。

【視点1】専門性とジャンルを超えた考察はどこまでをカバーするのが妥当なのか?
本書は、タイトルにあるように、“資本主義”のその後は?を問うものであり、メインテーマはあくまでも資本主義である。併せて、サブタイトルにあるように、“科学・人間・社会”の未来も問いかけている。すなわち、筆者自ら「ポスト資本主義」というテーマからは、あまりに遠い地点まで歩みを進めただろうか。(P243)と記述しているように、従来の資本主義を論ずるフィールドと比較して、空間的にも時間的にも到底収まらない範疇にまで取り上げ、論じている。
具体的には、本書の構造を見てみると、以下となる。
・序章=資本主義を座標軸にした“人類史”にまで枠を広げた問いかけ。
・第Ⅰ部=資本主義についての、時間軸に沿った、(一部科学との対比においての)考察。
・第Ⅱ部=科学と、社会性および人間を含む自然についての考察。
・第Ⅲ部=資本主義の今後の可能性としての、「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」の提唱。
・終章=再び“地球倫理”まで枠を広げ、新たな知のあり方を問う。
すなわち、第Ⅰ部と第Ⅲ部が本書の主としての資本主義の存在意義や今後についての論考であるが、著者は第Ⅰ部を論ずるために切り離せないテーマ(あるいは下支えとなるもの)として、独立した第Ⅱ部の章立てをして、第Ⅲ部へと導いた。更に大きな視点からの問いかけの序章と今後への方向性を示す終章によって挟む、という構成としていると思われる。
そこで私の持った問題意識は、資本主義のその後を問うという壮大なメインテーマを論ずるために、どこまでジャンルを超えて考察するのが適切なのかということである。例えば、第Ⅱ部では資本主義と類似性のある科学を主に取り上げ論じているが、いわゆる近代科学を生み出したキリスト教的な思考・行動形態による影響や、そもそも目に見えにくい文化・文明・民俗学的な縛り、歴史学的なアプローチなど、どこまで広げていけば良いのかといったことについては論じてみたいところである。いくつかの映画や火の鳥といった、このような論議には取り上げることの少ない分野にも触れたところに、筆者の強い思いやもどかしさが感じられました。

【視点2】日本は「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」になり得るのであろうか?
本書の問うポスト資本主義の一つの解は、第Ⅲ章の「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」であるが、その実現に向けて筆者は、格差が相対的に小さく、環境のパフォーマンスが良好な国として、スイスやドイツ、北欧などの国々を挙げている。
そして、日本については“人口減少社会のフロントランナー”として、真の豊かさのかたちとして実現していくべき社会像としても位置付けられる。(P215)としているが、具体的な実現の方法までの記述には至っていないと思われる。
上記の国々と比較しても、経済規模や人口のサイズが大きい日本が実現に向けて本気で舵を切っていくとしたら、「経済成長が全ての問題を解決してくれる」という強烈な縛りから国民を開放し、国家レベルで取り組んでいくことが、例え可能性としてもあり得るのだろうか?その具体的な方法について少しでも考えられればと思う。

【視点3】そもそも、進歩の基準とはどのように考えればいいのだろうか?
筆者は本論の最後に、21世紀は、なお限りない「拡大・成長」を志向するベクトルと、成熟そして定常化を志向するベクトルとの、深いレベルでの対立ないし“せめぎ合い”の時代となるだろうとし、それは困難を極めるプロセスでもあるに違いない、とも記している。そして、世界の持続可能性や人々の幸福という価値を基準にとった場合、定常化あるいは「持続可能な福祉社会」への道こそが、私たちが実現していくべき方向ではないか。ということを、本書の中心にあるメッセージとして、締めくくっている。(P244)
極めて多面的に、また俯瞰から細部に至るまで、様々な角度から“ポスト資本主義”を論じてきた筆者の、このシンプルなメッセージは、いわば「拡大・成長」を自明の理とした今までの資本主義からの決別ともいえよう。そしてこの決別は、従来型の見方からすると決して明るい未来を保証するものではなく、その実現には相当に高いハードルがあると思われる。
しかし、本書が希望を持たせてくれるような読後感を与えてくれるのはなぜだろうか?それは、筆者がこの決別を、形を変えた資本主義の進歩と捉えているからではないか、と私は理解した。そういう意味で、筆者が本書で伝えようとしたことから読み取れるテーマの一つは、資本主義も科学も限界を迎えているという現実を見据えたときに、(本書の中に記述があるわけではないが)こうした進歩に対する基準の持ち方そのものを、そもそも変えていこうという問いかけがある(人類規模での「死と再生」のレベルでのパラダイムシフト?)と考えるのは如何でしょうか?

■最後に
著者の広井良典氏は、本書を出す前に、『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』、『持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想』、『創造的福祉社会―「成長」後の社会構想と人間・地域・価値』、『人口減少社会という希望――コミュニティ経済の生成と地球倫理』などの著作で、繰り返し経済の脱成長と定常型社会へのシフトを提唱しています。
本人の定義によると、定常型社会とは、「経済成長を絶対的な目的としなくても十分な『豊かさ』が実現していく社会のことで、物質的な需要が成熟している社会」のことで、子供や高齢者が、ゆったりと過ごせる地域に根ざした「新しいコミュニティ」を充実させていくことが、今そこに来ている人口減少社会を迎える日本を豊かにしていく鍵としております。
私は本書を読むことによって、実質的に世界を動かしている「資本主義」という、もう逃れることのできない巨大なシステムを、経済情勢や日常のビジネスとは違う新たな視点から多角的に捉えることの重要性を痛感いたしました。

おまけ、今月の1枚

久々に海の見えるホテルに泊まる機会がありました。東海地方のホテルからの落陽です。
日中は天候が優れず夕陽はあきらめていたのですが、落日の前に雲が切れ、慌てて望遠で写しました。
(7月撮影)